2016年7月16日土曜日

当たり前だと思っている日常は・・・

宮城で震災に被災した人達の復興の様子を見る番組をたまたま見ました。何気なく医局の当直室のテレビのスイッチを入れた時に画像が目に入ってきたのですが、遂に最後まで見入ってしまいました。

昨日まであった日常が今日は全く消えてしまい二度と戻らないのは”言われれば”頭では解っても、常日頃はそんなこと自体考えもしません。しかし、どれほどの人が今日という日がまた明日も何事も無く続くと信じているかというと、正直なところそれさえ何も考えず、というのがいわゆる”普通の人”、凡人の凡人たる所以だと思うんですよね。

私だって明日の朝起きてみればもう冷たい体になっているかもしれない、今日の夜に大地震が起きて建物の下敷きになるかもしれない、道を歩いていて車にはねられるかもしれない、擦れ違った人に殴り殺されるかもしれないというような、”かもしれない”と言う可能性を積み重ねていけば、本当に明日が暗くなるほどの世界が出て来ないとも限らないのですが、それが己に降りかかりそうだと心で強く感じてしまうとそれはもう”うつ病の世界”となるわけで。

明日の暗い世界を想像せず、明日起きるかもしれないなにか良いことを想像できるからこそ(もしくは何も考えていないからこそ?w)、普通の人は落ち込むこともなく今日や明日を生きることが出来るわけですので、

それでも、私たちは今日自分たちの周りに当たり前のようにある”日常”の素晴らしさを本当はもっと感謝して生きていけないのかなとは考えるのですが、その”感謝をしなくても済むということ自体”が日常の何気ない生活というものが如何に私達の生活の質を保っているのか考えると、人間の平穏な人生なんていうのはやっぱり殆どイベントとしては日常生活で起こらないことの期待値の掛け合わせなんかな〜って考えてしまうのでした。

結局は一日一回という意味では稀なイベントであっても、一年365日、それが何十年も続いていけばその期待値は日々刻々と累積していくわけで、人生のある時期ある日において”明日死ぬ”と言う日が累積した期待値1になる現実として起きる日がやってくる・・・。

家族との何気ない会話、大切な人との何てことない会話。愛した妻や子供達との会話、老いた両親との何気ない連絡。
テレビを見ていて考えたのは、何気ない今日が明日も続く保証など、どこにも書いていないという当たり前の事に改めて考えが及んだ大切な機会でした。

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