2015年8月5日水曜日

新聞の撒き散らす毒

医局には名古屋の病院らしく中日新聞が置いてあります。(もう一つは中日スポーツ)

ごくまれに空き時間が出来てソファに座って休憩できる時が出来たりする時にふと新聞を手にとって見ると「いまだに」相も変わらぬ論調で記事を書いているのを見てただ「あ~あ・・・まだやってるんか」と感じてしまいます。
戦前の大政翼賛新聞が一転して自由と平和を説くというへそが茶を沸かすようなポンチ絵が昭和二十年以降に展開されて以降、国家の方向性を過たせた時の行為を全く反省することの無い恥知らずの末裔が経営しているのが今の新聞。
そんな連中が平和を説くことの胡散臭さに気づかないのは、天声人語を夏休みの宿題に書き写すように学校に説得されている小学生くらいではないでしょうか。

逃げたり近づいたりと、遺伝子レベルで単純に光に反応する昆虫のように、「記号」に反応するのは右も左もアホの変わらぬ本質ですが、今「日本の右傾化」と非難される論陣の文章を見ると、こういった絶対正義を名乗る連中が振りかざす昭和の選挙カーのような、単調で中身の無いくだらない論調はその中にコッソリ混ざった本当の記録や正しい主張までをもあたかも嫌悪すべきものであるかのように錯覚をさせるところが非常に悪質です。本当に悪質。
戦争の証言者の言葉や体験は非常に重みのあるもの、しかしそこで木に竹を接ぐが如きマッチポンプ的論旨の展開は最悪。戦前の我田引水と向きが百八十度違っているだけで、やっている誤りの大きさはほぼ同じです。

国家にとって戦争というものは為政者にとって可能な限り「絶対に近いレベル」で避けて遠ざけておきたいものでなければならないはずです。人・モノ・金・時間の全てを喰い尽くしながら最後に残るのは戦いあった国家間の負の歴史と恨みと廃墟と巨額の負債のみという戦争を仕掛けるのはハッキリ言って狂人の行いでしか有りません。

しかしながら、鍵をかけない田舎の一軒家ならいざ知らず、街中に家があって周りで空き巣被害があると判っている家の家長がその家に鍵をつけかつそれを機能させないわけが無いでしょう。それと同じで家にとっての防犯が鍵であるように国家にとっての鍵は防衛の為の武器です。

アメリカに守られてきた戦後の長い期間に育った温室育ちの我々には平和という眼の前の日常が空気のように余りに当たり前であるがゆえに、それが恙無く保たれるための原理というものをすっかり忘れてしまったようです。去勢牛のように。

軍服来て街を練り歩くクソ右翼も、似非平和主義者の暴力革命を本質に隠し持ったクソ左翼もとっとと引っ込んで、冷静な事実と討論の上に成り立った正しい国家の姿に関する議論を残りの市井の人達にさせて下さい!

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