2008年12月1日月曜日

ニュースとは-続き

さて話がまたまた脱線しましたが、こちらの国でもテレビや新聞の質などと言うのはいつも格好の揶揄の対象でしかないみたいです(少なくとも私の周囲では)。ある友人が喝破するに「新聞で正しいのは日付と新聞の名前のみ」とのことだった。これにはその短い言葉の切れ味に脱帽してしまったものだ。新聞社が誇らしげに自分を表現するときに使う「クオリティーペーパー」という自称は、これまた大笑いのネタで、そんな事をまともに信じている人は科学の世界に居る友人達には少ないと思います。質の悪い冗談としては受け取れますが、『何々系列』とかいわれているような新聞や、テレビ局などは殆ど読むにも視聴するにも値しないようなメディアばかりです。FOX然り、WASHINGTON POST然り、NY TIMESも無論、滅茶苦茶。
選挙の候補者や政党、政策への肩入れの仕方はまあ、精々ゴシップ週刊誌と同じレベルの記事と考えた方が良いと思います。こういうあたりは日本も何も変わらない感じでしょうかね。センセーショナルな記事を書いて耳目を集めなければならない売文はやはり売文と呼ばれるだけの品質でしかないと思います。
新聞記者の記事の方が文章が洗練されているとか感じる事はまず無いし、その記者の事件に対する分析力も、偏向の度合いもまあ、呆れる様なものが殆どでは無いかというのが正直な所です。
何がそういう記事を書かせるのだか良く解りませんが、少なくとも不偏不党とは全く縁が無いと思います。~主義とか、~イズムとか言うのが大嫌いな私の眼からは、最初から事実の論評を結論づけた上でそれに沿った事件報道をするなどというのは、もう最悪の世論誘導だと思います。殆どの事件には読み手がもっと知りたい裏側があるのに、結局その読み手が推測できるのと同じ目線でしか記事が書けないなどというのはもう給料もらう資格が無いと思うんですが。(ほぼ全員無くなるか?)
おまけに新聞やテレビで大嫌いなもう一つの事はその継続性の無さ。大切な事は時間系列に関係なく、人々が忘れ去らないように追求を続けるべきものであり、喚起したい世論があるのならば正当な理論を持って力を入れるべきかとも思いますが、所詮、公器としては作用する運命に無い売文組織にはそういう期待は無理でしょう。
時の首相の人気度調査で今回は何パーセント上がった下がった等というのはポピュリズムの最たる物。前の戦争で世論を誘導し多くの国民を死に導いた挙げ句、戦後は素知らぬ顔で人民の云々等と「どのツラ下げて」正義を人に説くのか、遺伝子レベルで何も変わっていないのは明白です。
地球環境と将来の日本の為にも「押し紙」新聞の販売は一刻も早く無くなるべきで、子供に一人前の判断力がつくまで積極的には新聞を子供に読ませないのは親の大切な仕事なのではないかと考える私です。少なくとも自分の主張こそが唯一正しいという様な馬鹿な人間にはなってほしくないと願うのですが、、、。
まあ、この文章自体にも矛盾があると考えているだけ新聞記者より半歩分ましか。(笑)

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